大きな議論になっている、直木賞作家坂東眞砂子氏の「子猫殺し」を読んだ。

子猫を崖に投げ捨てている姿を想像し、背筋が凍る思いがした。

「世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。そんなこと承知で打ち明けるが」と始まっているが、こんなことをあえて打ち明ける必要があったのだろうかと単純に疑問に思う。


「人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。」「獣の雌にとっての「生」とは、盛リのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。」

だとしたら、「死」にちょっかいを出すことは正しいのか?
命をまっとうできずに、人の手で葬り去られてしまった「生」の意味とはどこにあるのか?

人にはそれぞれ信じる考えがあって当然だとは思うけれど、命は宿った時から尊ばれるべきだと思うので、私ならその命が授からないための工夫を間違いなく選択するだろう。


これを掲載した新聞社の意図も分からない。言論の自由とは言うけれど、きっと多くの人が不快に感じるであろうと簡単に想像できる内容のものを、こうも堂々と掲載するのは正しいことだったのだろうか。


久々に、いろいろ考えさせられた記事だった。



「子猫殺し」
           坂東眞砂子

 こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。
 家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生まれ落ちるや、そこに放り投げるのである。タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。草ぼうぽうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がごろごろしている。子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。自然に還るだけだ。
 子猫殺しを犯すに至ったのは、色々と考えた結果だ。
 私は猫を三匹飼っている。みんな雌だ。雄もいたが、家に居つかず、近所を徘徊して、やがていなくなった。残る三匹は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた。当然、成長すると、盛りがついて、子を産む。タヒチでは、野良猫はわんさかいる。これは犬も同様だが、血統書付きの犬猫ででもないと、もらってくれるところなんかない。避妊手術を、まず考えた。しかし、どうも決心がつかない。獣の雌にとっての「生」とは、盛リのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。
 猫は幸せさ、うちの猫には愛情をもって接している、猫もそれに応えてくれる、という人もいるだろう。だが私は、猫が飼い主に甘える根元には、餌をもらえるからということがあると思う。生きるための手段だ。もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。
 飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。しかし、それは飼い主の都合でもある。
 子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。だから杜会的責任として、育てられない子猫は、最初から産まないように手術する。私は、これに異を唱えるものではない。
 ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。
 そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。どっちがいいとか悪いとか、いえるものではない。
 愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。人は神ではない。他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。どこかで矛盾や不合理が生じてくる。
 人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない。それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。
 私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、杜会に対する責任として子殺しを選択した。もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。
(作家)

8月18日(金)付 日本経済新聞夕刊