オニオンが

発芽しちゃったので、そのまま観察することにした。

最初は 水栽培だったんだけど、お友達が 土に植えたら?と言うので それもやってみた。

f:id:Lacy:20170530005001j:image

f:id:Lacy:20170530005530j:image

f:id:Lacy:20170530005029j:image

f:id:Lacy:20170530005117j:image

f:id:Lacy:20170530010044j:image

f:id:Lacy:20170530005141j:image

結局 最後こんな感じになって 「ネギ臭」が 発散して来たので 止む無く終了。

f:id:Lacy:20170530010101j:image

 

 

 

 

猫の一生には150万円必要 「迎える前に考えて」と猫シッター

世間は空前の猫ブーム。ところがその影に、猫との暮らしがうまくいかない人、老猫の介護に悩む人も増えているという。そこで、『猫の學校』(ポプラ社)の著者で、5万匹の猫をお世話してきたキャットシッター歴25年の「猫のプロ」、南里秀子さんにインタビュー。猫との暮らし、つき合い方、キャットフードの選び方、防災や引っ越し、病院の選び方や介護など役立つ猫知識が満載の同書から、不妊手術や介護、老猫の見送りについて聞いた。【全2回・後編】

──たとえ人間の食べ物でも、猫が「食べたい」と思う物は生きる力になると。実際、一般的に食べないと言われる物を好むこともあるそうですね。

 好物は十猫十色ですから、それぞれ違う個性をよく見て“感察”することが大切です。人間の食べ物は猫には毒とも言われますが、私は一緒に暮らす子がどんな食べ物に興味を持つのか、“感察”を楽しむようにしています。そして、「この子は焼き海苔が好きなのね」と好物を覚えておくんです。というのも、そうやって好物を探って増やしていくと、何かあったときにそれが生きる力になることを、今までにたくさん経験しているからです。病気や怪我などで弱った状態のとき、好物はそれを見るだけでむくっと起き上がる力になるんですよ。

 すごく極端な言い方をすれば、もし危険な物を食べたとしたら、その猫は野生では生き残れず自然淘汰されてしまうでしょう。ところが今は、なまじ人間側に余裕があって、医療も発達してキャットフードの栄養価も上がってきているから、本来なら野生で死んでしまうような猫もなんとか生かされてしまう、ちょっと歪んだ部分もあるんです。足の短いマンチカンなどもそうですが、人工的に変形させている弱い種を可愛いともてはやしたりするのも、歪みの1つだと思います。変形させた動物は弱いですから、医療費もかかりますし。あまり人間が自然に介入しすぎるのはいかがなものかと思っています。

◆「殺処分ゼロ」以前にやるべきことがある

──猫の一生にかかる費用を知っておくことも大事ですね。

 猫の平均寿命は15歳ですが、一生にかかる経費を計算すると、約150万円にもなります。この経費を払い続けられるかどうか、猫よりも先に寿命を迎える可能性、転職や結婚、出産、親の介護など、環境や状況が変わる時に猫との生活をどうするかということまで考えてほしいです。

 野良猫を家に入れて、お金がかかるからと不妊手術を受けさせないでいたら、あっという間に猫だらけになって家が崩壊したというニュースがありましたが、お金や不妊治療のことを正しく理解していないことが招いた悲劇です。「不妊手術は可哀想」では、結果的に全員が可哀想なことになってしまうんです。

 殺処分される6万7000匹の猫がもし人間だったらどうでしょうか? 殺処分は尻ぬぐいの部分ですから、殺処分する前にやることがあるんです。必要なのは命の教育と正しい知識。そこに気がついて社会全体で変えていかないと、殺処分はずっと続いてしまうと思います。

不妊手術は「可哀想」?

──不妊手術には賛否ありますが、するべきでしょうか?

 不妊手術について、今の日本の現状では、私は不妊手術をするべきだと思います。今は人と猫の距離がかなり近いですよね。子犬の殺処分の割合はどんどん減ってきているのに、子猫の殺処分の割合が60%でずっと横ばいなのは、猫を家に入れた人の認識が甘いことが原因ではないでしょうか。愛猫家も、わがままだったり気まぐれだったり、猫と同じような性格を持っている傾向があるんですね。そういう自由なところが裏目に出ると、生まれた子猫を捨ててしまったり、家を猫屋敷にして崩壊させてしまったりということになる。「可哀想だから」という感情論で続けてしまうと、そういう悪循環にはまってしまうんじゃないかと思います。

 犬と猫では、暮らす人にもそれぞれ違いがあって、犬と暮らす人は勉強好きで、本に書いてあることを素直にやろうとする。一方、猫の人は、本はやたら読むんだけど、自分がやりたくないことはやらない(笑)。そして自分のやり方に固執して続けるような、人の話を聞かない頑固なところがあるので、実は猫とつきあうのと同じくらいに大変な部分もあるんです。「猫ちゃん大好き!」と言うような人は大抵母性が勝りがち。父性的な社会のルールや理性でコントロールするべきところが弱いと、どうしても感情に流れてしまいがちになるんですね。

◆猫が健康でいるために

──ワクチンや健康診断など、人間と同じように猫の医療もサービスが拡大していることについてどう思いますか?

 それは本当に必要なのか、それとも病院の経営を手助けしているのかを考えてみることですね。世の中は経済で動いているので、猫ブームに乗じてお金を儲けようと狙っている業界はいっぱいありますから。検査をしたからといって、すぐに症状や病気が治るわけではないことに気がついていれば、「その検査は結構です」と言えますよね。動物病院に連れていけば治してもらえると考えないことです。本来、人も猫も自分で治ろうとする自然治癒力を持っているわけですから、まずはそれを使うべきでしょう。

 まず最初に、彼らの生きる力がいちばん尊重されるべきなのに、「ここの病院につれていけば」「薬を飲ませれば」としてしまいがちなんです。そのほうがわかりやすいし、効果が早く出ますからね。でもそれは、猫のためではなく、自分の心配を取り去りたいからではないでしょうか?「今やろうとしていることは私のためではないのか?」と、自分自身に問いかけられる人であれば、おそらく猫といい関係を持てているはずですし、猫が病気になることも少ないように思います。

──病院へ連れて行かないほうがいいんでしょうか?

 それは猫に聞いてみましょう。「行ったほうがいい?」って。猫は必要なときには薬も飲むし、キャリーケースにも自分で入ります。自分がしんどいときは、助けてほしいから人を使うんです。でも元気なときは「病院なんて行かな~い」って逃げ回るんですよ。

──猫のゴロゴロ音が、猫だけでなく人間の不調も快復させるとは驚きでした。

 ゴロゴロ音の周波数には、骨の成長や修復、筋肉の快復や、痛みを緩和させる働きがあるんです。私たちが死に向かうときやものすごい痛みを感じたとき、脳内から恐れや痛みを緩和するホルモンが出るそうです。動物はもともとそういう力を持っているんです。その力を使う前に、薬で抑えてしまうのはもったいないと思います。病院に連れて行くか行かないかではなくて、本当に必要かどうかを見極める。そのために、猫はどうしたいのかをよく“感察”することが大切なんです。

◆老猫とのつきあい方、送り方

──今、老猫の介護はキュアよりもケアへ傾いているとおっしゃっていますね。

 キュアは治療で、ケアは介護やお世話という意味。小手先の技術的な治療よりも命に寄り添うということが大事です。例えば、病気ではなく「老衰」で死んでいくというときは、もうどうしたって抗えません。長生きさせるのは、誰のためかということです。猫はおそらく、美味しいごはんは食べたいと思っているけど、長生きしたいなんて思っていないのではないでしょうか。死を恐れるのは人間だけで、彼らはそれを受け入れる。ところが、私たちはこの猫を失ったら「可哀想な私」になってしまいます。病院に連れて行くのもそうですが、どこかで「猫のため」と「自分のため」をすり替えているように感じます。

 猫が望むことは、猫と話し続けていたらわかると思います。「病院には行きたくない」とか「食べたくない」と、ちゃんと猫たちは伝えてくるので、それを受け止める。日頃から話して“感察”を続けていれば、見送るべき時もきっとわかります。

◆「ペットロス」ではなく、「さよなら、またね」

──最終章の福ちゃんの旅立ちには涙しました。どんなふうに最後を送ってあげたら猫たちは幸せでしょうか?

 それは猫によって違うと思います。引き留めず、その子がいきたいときにいかせてあげられる、さよならじゃなくて、向こう側に送り出す、そういう感じです。看取りというと、ちょっと上から目線になってしまうので、「いってらっしゃい、また会おうね」と向こう側に送り出せるような成熟度がこちらも必要になると思います。「いかないで」ではなく、「ありがとう、楽しかったよ、また会おうね、いってらっしゃい、おめでとう」って送り出せるのが素敵だと私は思います。

【南里秀子(なんり・ひでこ)】
1958年生まれ。1992年、猫専門のシッティングサービスを創業。猫の生涯保障部門を開始し、「猫の森」としてシッター育成や猫に関するセミナーを展開している。2009年に世界初、キャットシッターの視点から猫について解明する『猫の學校』セミナーをスタート。著書に『猫の森の猫たち』(幻冬舎文庫)『猫と暮らせば』(小学館文庫)『猫と人と古民家と』(幻冬舎)など。

野糞を続けて43年「奥さんよりウンコを選んだ」伊沢正名さんの信念 「汚物」に責任、「自然へ命を返す」

野糞を続けて43年。通算1万3千回以上も野糞を繰り返してきた伊沢正名さん(67)。「糞土師」を自称し、新著『「糞土思想」が地球を救う 葉っぱのぐそをはじめよう』(山と渓谷社)を出した伊沢さんに、野糞の神髄を聞きました。

スズメバチに刺され、ヒルに血を吸われても

 ――これまでにどれぐらい、野糞をしてきましたか。

 1万3760回です(4月13日現在)。1974年からなので、野糞歴は43年になります。完全に野糞だけで過ごした最長記録は、2000年6月1日から2013年の7月15日までの13年間。最後は都内でお腹を壊して駅のトイレを使い、連続記録が途絶えてしまいました。

 21世紀に入ってからトイレを使ったのは、その時も含めて3回だけだったんですが、2015年に舌ガンで入院して病室のトイレを6回使い、合計9回に増えちゃいました。お陰でガンはよくなりましたけど、さすがにこれから13年の記録を破るのは難しいでしょうね。

 ――自然のなかですから、危険な思いをしたこともあるのでは。

 クロスズメバチに刺されたり、ヒルに血を吸われたり。サルに石を投げられたこともあれば、イノシシが寄ってきたこともありますよ。マムシやハブ、ヒグマとニアミスしたこともありました。

 ――人間と遭遇したことはありますか。

 人間が一番危ない(笑)。できるだけ人目を避けるようにしていますが、それでも出くわしてしまうことはあります。敵とどうやって対決するか。先に気がついた方が勝ちなんです。だから、野糞は人が来そうな方を向いてします。背後から来られるとマズイので、後は藪とかで守ってね。

 見られるのは恥ずかしいけど、見る方だって恥ずかしい。人が来たら、近づいて見られる前に、こちらからあいさつしてしまうんです。「おーい、こんにちは!」って。そうすれば、「ウンコをしながらニコニコあいさつしてくるなんて、コイツは危ないヤツだ」ということで、立ち去ってくれる。心理作戦ですよ。ハハハ。

「仙人になりたい」と高校を中退

 ――野糞に目覚めるまでの歩みを教えてください。

 中学・高校と電車で通学していて、大人たちが会社の不満や上司の悪口、不正なんかについて話しているのを、車内でよく耳にしました。純真な青少年だったので、「大人の世界は何て汚いんだ」と人間不信に陥って。医者や営林署の職員を目指した時期もあったのですが、全部嫌になっちゃったんですね。人とのかかわりを断って山にこもろう、仙人になろうと思って、高校を中退しました。今から考えると、半分精神を病んでたんでしょうけど(笑)。

 ――野糞に対する第一印象は、あまりいいものではなかったとか。
 
 高校生の時、茨城の自宅の裏山に登ってゴミ掃除をしていたら、紙クズの下にあったウンコを触ってしまった。洗う水も何もないし、最悪でした。出しっぱなしで人に迷惑を掛けるのはよくないなと思って、自分が野糞するようになってからは、しっかり埋めるように心がけています。

住民運動のエゴに嫌気、キノコの力に魅せられて

 ――著書『くう・ねる・のぐそ』(山と渓谷社)によれば、1974年の1月1日に初めて野糞をしたと。キッカケは。

 屎尿処理場の建設に近隣住民が反対しているという新聞記事を読んで、住民運動のマイナス面を知ったことがひとつです。自分自身が自然保護運動をしていたこともあって、「自然を破壊するのは行政や企業で、それに対抗する住民運動の側は善なんだ」と思っていた。でも、自分のウンコを処理してもらう施設に対して、「臭くて汚いからイヤだ」というのは、結局エゴじゃないですか。

 ――そこから、なぜ野糞に?

 処理場建設には反対していなかったけど、トイレでウンコをしている点では自分も反対派の人たちと変わらない。誰かに迷惑を掛けて、処理場で始末してもらっているわけです。それなら、野糞をして菌類に分解してもらおう、キノコにやってもらえばいいじゃないかと。ちょうどその頃、『日本のきのこ』(山と渓谷社)という本で、動物の死骸やウンコを分解して土に返す菌類の役割を知り、菌類の働きを守ることこそが本当の自然保護になると学んだんです。

分解されない紙にショック、拭き方を改良

 ――当初は紙でお尻を拭いていたものの、いまは葉っぱを使っているそうですね。

 以前は当たり前のように紙で拭いていたのですが、1978年の第2次オイルショックの時に考えを改めました。トイレットペーパーが買い占められて、店から一斉になくなって。このぐらいのことでアタフタして、パニックになるような文化生活って何なんだと。だったら、なるべく紙は使わないようにしよう、と葉っぱで拭くようになったんです。

 それでも最後の仕上げだけは紙を使っていたのですが、1990年からはそれもやめました。キッカケは、自宅の裏山で野糞をした時に、掘り返した地面から紙が出てきたこと。何だろうと思ったら、自分が半年以上も前に野糞をした跡だった。ウンコも葉っぱも跡形もなく分解されているのに、紙だけは分解されずに残っていたんですね。

 ――そこで反省して。

 そうですね。偉そうに「自然のために」なんて言いながら、いったい自分は何をやっていたんだろう。分解しにくいゴミをバラまいてきただけじゃないかと。以降は基本的に紙を使わず、葉っぱで拭いた後に水で洗うようになりました。

高級ティッシュ超える肌触りの葉っぱも

 ――でも、葉っぱってザラザラしませんか。

 いい葉っぱは高級ティッシュペーパー以上の肌触りですよ。たとえば、ノウタケというキノコなんか、化粧用のパフよりも柔らかい。講演会で女性に触らせると、歓声があがりますね。「こんなに気持ちいいのでお尻拭くんですか! もったいない」って。

 チガヤはネコジャラシみたいな見た目ですが、シルクのような肌触りで吸着力もいい。フキは使い勝手はさほどでもありませんが、「拭き」が語源だとする説もあり、マタギがお尻を拭くために使ったとも言われています。

批判は覚悟 「ウンコで革命を起こす」

 ――野糞を続けることに対して、批判もあるのでは。

 結構ありますね。「ハエがたかるので汚い」とか。汚いのはハエよりも、自分が出したウンコ。ハエはウンコを分解してくれる昆虫で、むしろ感謝すべき存在なんですよ。

 野糞は軽犯罪法違反では?という指摘もあります。でも、軽犯罪法は街路や公園など、人が集まる場所での大小便や、タン・つばを吐くことを禁止しているだけです。もし逮捕されたら、ウンコ闘争・ウンコ裁判を貫きますよ。トイレは使わず、留置場にどんどんウンコをためていく。いけるところまでいくつもりです。

 「糞土思想」は現代の地動説。時代が追いついていないので、批判を受けることもあります。ガリレオも裁判にかけられた。私はウンコで革命を起こすつもりですから。

 ――そうは言っても、日本人全員が野糞を始めたら、大変なことになりませんか。
 
 大丈夫です。よく聞かれるので調べてみたら、「野糞は1箇所につき年に1回限り」という前提で計算すると、1日1回365日ウンコをするとして、必要な面積は1人あたり1アール。日本人全員だと1.2億アール(120万ヘクタール)です。これは日本の森林面積(2500万ヘクタール)の約20分1。高山帯や天然林など野糞に適さない土地を除外しても、余裕は十分にあります。

「一番つらかったのは、カミさんに逃げられたこと」

 ――家族から反対されたことは。
 
 この活動をしていて一番つらかったのは、カミさんに逃げられたこと。野糞自体の趣旨は理解してくれていたのですが、私が良識派とか人権派の人たちまで敵に回して批判するものだから、ついていけなくなったようです。5年ほど前に離婚して、いまは独り身ですね。

 ――伊沢さんの主義主張とご家族と、どちらを選ぶのかというところで、奥さんを優先する選択肢もあったのでは。

 そうすると、ウンコ闘争をやめるしかない。それはできませんよね。

 ――奥さんよりもウンコを選んだと。

 極端な言い方をすれば、そうなっちゃいますね(笑)。

 なぜそうまでして人権派を批判するのかというと、そもそも「人権」って傲慢だと思うんですね。人権派は人間のことしか考えていない。しかも正義感を持っているでしょう。そこが嫌なんです。もっと自然やほかの生き物に対して謙虚にならないといけない。単に野糞を広めるだけでなく、ウンコを元に人間の傲慢な生き方を改めよう、ということなんです。

「ウンコはごちそう」 そのココロは…

 ――改めて聞きますが、トイレじゃダメなんですか。

 本来ウンコっていうのは、次の生き物の命のもとになっているんです。

 人間は肉・魚、穀物・野菜・果物といった、命ある「生き物」を食べてウンコをする。そして、人間のウンコを獣や菌類が食べる。菌類はウンコを無機物に分解して、空気中に二酸化炭素を放出します。いわば菌類のウンコですね。そうしてできた土の栄養を植物が根から吸い、光合成で酸素をつくりだす。酸素は植物のウンコとも言えるわけです。

 自分のウンコは次の生き物のごちそう。みんな、ほかの生き物のウンコを食べている。ウンコによって命がつながっているんです。

 トイレでするということは、ウンコを生き物の世界から追い出しちゃってるわけですよね。下水処理し、焼却して灰にして、セメントにする。ウンコを燃やすために、重油天然ガスなどの資源も無駄遣いすることになります。それで自然との共生なんて言っても、空念仏ですよ。

 ――伊沢さんの説く「糞土思想」の神髄は。

 「食は権利、ウンコは責任、野糞は命の返し方」「ウンコに向き合うことは、自分自身の生きる責任に向き合うこと」。この二つが、糞土思想の基本です。

 人間には動植物の命を奪った責任、おいしいごちそうから汚物をつくりだした責任がある。ウンコは責任のかたまりなんです。では責任をとるために、どうしたらいいか。野糞という方法で自然に命を返し、汚いウンコをキレイにしよう、というのが糞土思想です。

ウンコのタブーを破りたい

 ――最後に、今後の抱負をお聞かせください。

 ウンコに対していまだに偏見やタブーがあるので、これを変えていきたい。タブーというのは、都合の悪いことを覆い隠す卑怯な手です。ウンコをタブーの世界に押し込めて、見ない・見えないようにして…。でも「ないこと」にしてしまうのは、責任逃れじゃないかと思うんです。タブーをどんどん暴いて、物事の本質をハッキリさせないといけません。

 そのためにも、これからは教育に力を入れていきたいですね。教育にウンコの問題を持ち込んで、啓蒙活動をしていけたらと思っています。

 〈いざわ・まさな〉 1950年、茨城県桜川市生まれ。県立水戸第一高校を中退。75年にキノコ写真家に。74年から野糞を始め、90年には紙を使わず葉っぱと水で処理する現在の方法を確立した。著書に『葉っぱのぐそをはじめよう』『くう・ねる・のぐそ』(いずれも山と渓谷社)、『うんこはごちそう』(農山漁村文化協会)など。