光市母子殺害 本村さん会見「うれしいとか喜びはない。厳粛な気持ちで受け止めている」

光市母子殺害事件の遺族、本村洋さん(35)は20日の最高裁判決後、東京・霞が関の司法記者クラブで記者会見を開いた。会見開始までの数分間、目をつむり、深呼吸を何度も繰り返した本村さん。記者に促され、判決への思いをしゃべり出したとき、目には涙がたまっていた。

 ――判決を受けての思いを
「はい、まず初めに13年間という事件発生から長い時間が経過したのにもかかわらず、これだけたくさん報道していただき、社会の皆さんが関心を持っていただいたことに感謝している。13年間の中で人間的に未熟なところがあり、感情的になって不適切な発言をしてしまい、それを聞いて不快に思われた方もたくさんいると思う。深くおわび申し上げる」
「また13年の長い間、裁判を続けてきた裁判官、検察官、捜査された警察官の方々、そして最後まで熱心に弁護をしていた弁護士の方々に深く感謝する」
「今回、死刑という判決が下され、遺族として大変満足している。ただ決してうれしいとか喜びとかは一切ない。厳粛な気持ちで受け止めないといけないと思っている」
「事件からずっと死刑を科すことを考え、悩んだ13年間だった。20歳に満たない少年が人をあやめたとき、もう一度社会でやり直すチャンスを与えることが社会正義なのか。命をもって罪の償いをさせることが社会正義なのか。どちらが正しいことなのかとても悩んだ。きっとこの答えはないのだと思う。絶対的な正義など誰も定義できないと思う」
「ただ日本は法治国家で、この国には死刑という刑罰を存置していることを踏まえると、18歳の少年であっても、身勝手な理由で人をあやめ、反省しないと死刑が科される。日本という国はそのくらい、人の命について重く考えているということを示すことが死刑だと思うので、死刑判決で日本の社会正義が示されたことは大変良かったと思っている」
「これが絶対的な回答ではないと思うし、判決を受けて議論があると思う。死刑を存置すべきだとか、廃止すべきだとか色々な考えが出ると思うが、これをきっかけにこの国が死刑を存置していることを今一度考えていただきたい。裁判員裁判も適用されていることですし、身近に起こる事件、犯罪について考える契機になれば、妻と娘の命も、今回、死刑が科されるであろう被告の命も無駄にならないと思っている」

 ――この13年間、どのような年月だったか
「一言ではとても言うことができない。やはり時間というのは最良の相談相手だった。長い年月の中で年を重ね、怒りも少しずつ収まり、色々なことを冷静に見られるようになった。こういった事件に遭ってしまったことの意味、それをどう社会に生かすことができるのかを考える日々だった」
「犯罪被害者遺族となり痛感したのは刑事裁判で犯罪被害者の権利がないがしろにされていることだった。犯罪被害者の方と手を携え、犯罪被害者保護法など犯罪被害者の権利拡充に向け運動をでき、それを達成できたことを何よりもうれしく思っている。それを気付けたのも、妻と娘の事件があったから。被害者の声に耳を傾けてくれ、世論を作って、政治を作って、立法に結びつけてもらったのは世論の皆さんの力。そういったことに感謝する13年間だった」

――主文を聞かれたときの思いは
「非常に短い判決文だったと思う。被告が不合理な弁解をしていると言及されて、反省の情が見られないという判断をされたと理解している。18歳の少年に生きるチャンスを与えるべきか、最高裁も非常に悩まれたと思う。反省の情があれば死刑にならなかったと思う。残念ながら、被告には反省の情が見られないということを理由に、死刑になったことが一番重いと思っている」
「今までのような被害者の数を基準に、3人以上だったら死刑、2人だったら無期懲役というように機械的な判例主義ではなくて、一つの事件、一つの被告をしっかり見て、反省しているか、社会に出て再犯しないかをしっかり見極めた上での判決だったということで、非常に良かったと思う」

 ――死刑と向き合う被告にどのようなことを考えてほしいか
「私があずかり知らないことだが、事件からずっと裁判を見てきて、やはり被告の言動を見る限り、反省に欠けているところが多々見られた。最高裁では被告が出廷しないので、どういう心境なのかは計り知れないが、いま死というものが迫ってきて、死を通じて感じる恐怖から罪の重さを悔い、かみしめる日々がくると思う。大変な日々だと思うが、そこを乗り越え、胸を張って、死刑という刑罰を受け入れてもらいたい。酷なことを言っているかもしれないが、切に願っている」

 ――死刑執行までの間に被告が反省するかもしれないが、被告の声を聞きたいと思うか
「今は被告と面会する考えは持っていない。ただ私は以前、アメリカのテキサスに行き、死刑囚と面会した。私は法律のプロではないので軽々に発言できないが、アメリカでは死刑囚の最後の言葉を公開している。日本でももう少し、死刑囚の最後の言葉、最後の情状を伝えることがあってもいいかなと思っている」
 
――差し戻し控訴審以降、被告と接点はあったか
「特になかった。弁護士の方から電子メールが届くことはあった」

 ――被告の言葉を代弁しているものか
「代弁というよりも、いろいろな不合理な弁解を少年がしていることを解説しますという形でいろいろと説明した文章を送ってこられたり、死刑に関してどう思うのか質問してきたりした。私は回答せず、大変失礼なことをした」

 ――(亡くなった)奥様、お嬢様にはどう報告するか
「まだ何も考えていない。明日、福岡のお墓に行き、今日の判決のことを報告しようと思う」

 ――遺影を風呂敷に包んでいたが
「あまり人に見せるようなものではないと思ってきたし、家族もそっちの方が落ち着くのかなと思い、私の胸の方に(遺影の)顔を向けて膝の上に置いた」

 ――法の整備についてはどう思うか
「まだ十分ではないが、犯罪被害者が裁判に参加して意見陳述を述べるようになるなど、権利拡充がかなり進んできた。ただ犯罪によって障害を負ったり、膨大な医療費を抱えたり、家族の収入の柱であるご主人が亡くなって家族が路頭に迷ったりしたとき、経済的な支援で不足している。積み残された課題だと思う」

 ――司法制度が被害者の気持ちをくむものに変わる中、象徴的な当事者に位置づけられた。葛藤や悩みはあったのか
「どうして私の事件がたくさんの関心を集め、メディアが来てくれるのか自分でも分かっていないが、これも何かのめぐり合わせだと思う。こういった場を利用させてもらって、自分の事件だけではなく、犯罪被害者のこと、日本の刑事裁判の在り方、少年の処罰の仕方について問題提起させてもらうことが私の使命と思い、精神力、体力が続く限り対応してきた。それが本当に良かったのか、社会の役に立ったのか、むしろ不快に思われていないかなどを悩んできたのも事実だ」

――(犯罪被害者のための)活動は今後も続けていくのか。今後の人生はどう生きていくのか
「事件から9年すぎたとき、犯罪被害者に関する講演活動などを一切やめた。仕事に傾注するようになった。今も犯罪被害者の環境のすべてが改善されていないが、自分の才能、気力、体力がないので、まずは自分の生活を見つめ、立て直すことを一生懸命やりたい」

 ――13年間を支えたものは何か
「たくさんの方に支えていただき、これ一つということはとても言えないが、ずっと私を支えてきた言葉がある。事件発生当初から私の取り調べをして、その後も支えてくれた刑事さんが言ってくれた言葉で『天網恢恢(てんもうかいかい)、疎にして漏らさず』。『いくら裁判で君の望む判決がでなくても、天はきちっと見ていて、悪い人をその網からもらさず、必ず罰をあてる』という言葉を与えてくれた。その言葉を胸に抱いて、これまできた」
「今日も最後、裁判が終わったとき、あの言葉は本当だったなと改めて思った。その刑事さんだけでなく、多くの人に支えられた。また多くの人に迷惑をかけた。感謝の念を忘れずに、生きていきたい」

 ――死刑の確定に進んでいくが、人生を立て直すきっかけになるのか
「裁判が終わっても、ずっと事件のことは考えていくと思っている。死刑判決が下ったからといっても、ふとした瞬間に思い出して、考えながら生きていく。多くの犯罪被害者の遺族は(犯人の判決が)無期懲役、懲役が当たり前で、気づけば犯人が社会復帰していることに比べれば、穏やかな生活ができる。その点は感謝している」

――日本では量刑で「若さ」が要素になっている。司法や立法への要望は
「とても難しい問題。肉体的な年齢で線を引いて『ここからは死刑』と決めていいものなのかは、とても悩むところ。被告が拘置所から出した手紙で『自分は18歳と少しだから死刑にならない』とか(書かれていた)。そういった打算をして犯行に及んだら、年齢で線を引くことは悪い例になるかもしれない」
「ただ今回の事件については年齢よりも、反省の情(があるか)を13年間、裁判所は見てきた。反省して社会復帰できると裁判官が認めれば、死刑は回避できたはず。年齢だけではなく、情状面をしっかり見ることが大事だと思う」

 ――以前「もし自分が殺された立場だったら残された家族には事件にとらわれて生きてほしくない」と話していた。差し戻し控訴審から、生活の中で変わったことはあるか
「自分の生活の立て直しに懸命になっている。事件のことを考えずに生きるのは無理だが、しっかりと家庭を持って維持して、社会に資する人間になろうと思い、これからがんばっていきたい」

 ――判決が少年事件にどのような影響を与えると思うか
「日本はずっと判例主義で判決が決まってきた。今回の判例は18歳の少年が2人を殺害したら死刑になるという実績をつくったことになる。この事件以降、少年への厳罰化がもし進むのであれば、それは私がマスコミの前で発言してきたことの影響が多々あると思うので、私自身も責任を感じなければいけない」
「ただ裁判の判決は私が出したものではなく、社会の情勢、世論をしっかりと裁判所が見つめ、いまこの時点での価値規範を社会に示したものだと思っている。今回の事件を受け、刑が厳しくならない方向に行くかもしれないし、厳しくなる方向に行くかもしれない。それは分からないと思う」
「常に法は未完であり、完璧な判決はないと思っている。諸行無常の中で、世論の動きを敏感に感じて、そのときの価値観に合ったもの(判決)を出していくことがあっていいと思う」

 ――事件から13年で、娘さんがもしも生きておられたなら中学生になっている。日々の生活の中でそういったことを感じることはあるか
「事件当初はそういった気持ちを持つことがたくさんあったが、今はそういうことはない。まして自分の子供が13歳になっていたなんて、そういうことすら考えなくて、いつまでたっても妻は23歳、娘は11カ月のままですから、そういった気持ちにはならない」
「ただ自分が生きていく中で、時々、厭世(えんせい)的な気持ちになったり、仕事のやる気をなくしたりすることは今でもある。そういったときは周りの人に支えてもらい、生かしてもらっている」

 ――以前、「判決は被告だけのものではない」と言っていた。その気持ちに変わりはないか
「その気持ちに変わりはない。判決は被告のものだけでなく、被害者遺族、何よりも社会に対して裁判所が言っていること。少年であっても身勝手な理由で人を殺害したら死刑を科すという強い価値規範を社会に示したことを社会全体で受け止めてもらいたい。私も極刑を求めてきたものとして厳粛に受け止める」
 
――命日はどうされるか
「命日はいつもお墓参りをしている。毎年と変わらず、お墓に行って、手を合わせたい。私が生きている限り、命日には墓前に足を運びたい」

 ――どのような方々が支えてくれたのか
「会社の上司だったり、部下だったり。あとは一生懸命、仕事をしている人の姿を見ると、自分もがんばらないといけないと思う。最近では大震災があって、がれきのなかで一生懸命、復興しようとされている人の姿を見ると、自分もがんばらないといけないと思う」

 ――事件の現場となったアパートは老朽化しており、ずっとそのまま置いておくというのは難しいという話があるが、現場はどうあってほしいと思うか
「私の持ち物ではないので、時代とともにアパートがなくなることは仕方ない。今でもときどき、私は気持ちが萎えたとき、元気がなくなったとき、夜中にこっそり行って手を合わせることがある。そういった場がなくなるのは悲しいが、時代の流れだと思う。形あるものはいつかなくなる。それは受け入れるしかない」

――判決前の心境は
「非常に精神的に落ち着かない状況だった。努めて特別なことをせず、いつも通りの日常を直前まで続けた。たくさんの取材依頼があったが、お応えできずに迷惑をかけた。明日は判決内容をしっかり墓前で伝えたいと思う」

 ――弁護団への思いは
「殺意の否認は非常に残念だが、逆風の中で熱心に弁護されたことは立派なことだと思う。被告にとっても、最後まで自分の命を助けようと足を運ぶ弁護士と接することで感謝の気持ちが芽生え、反省の一歩になる。弁護のテクニックなどでいかがかと思うことはあったが、弁護士の役割を果たされたと思う」

 ――被告に言いたいことは
「彼のしたことは許されない。きっちりと罪を償わないといけない。判決をしっかり受け止め、罪を見つめ、反省した状態で刑を堂々と受け入れ、全うしてもらいたい。これが私の伝えたいことです」

 ――この裁判が13年間注目されたのは、本村さんが素直な思いを話してきたことを世論が重く受け止めたからだと思うが、今後、社会に向けてどのような活動したいか
「私が色々な方と手を携えてやった活動が正しかったか、正しくなかったかは私が言うことではなく、歴史が判断することだと思うが、何もしなければ始まらない。小さな一歩でも始めれば、社会が変ると実感できた。司法制度を変えることができたのは良かったと思う。今後は、市井の会社員なのできちんと仕事をして、納税をして、一市民として社会の役に立てるようにしたい。特に社会に出て、活動することは考えていない」

――判決後、家族とどのようなやり取りをしたのか
「判決が述べられた後、(死亡した妻の弥生さんの)お母さんに『長い間お疲れさまでした』と声をかけ、お母さんから『ありがとうございました』と言われた。自分の父親からは『よくがんばった』と背中をたたかれた。また裁判が始まる前、(弥生さんの)お父さんから手紙をもらった。普段あまりしゃべらない方だが、『今まで何も言わなかったけど、よくがんばってきたね』という直筆の手紙をいただき、それがすごくうれしかった。いつも会見の場に私しかでないが、後ろから親族、家族に支えられていたということを改めて痛感した」

 ――未執行の死刑囚が増えている。執行の現状についてはどのように思われているか
「わたしごときが言っていいのか分からないが、法律を読めば死刑確定から半年以内に執行することが法務大臣の責務。法務大臣の思想信条で死刑執行しないことが決まるのは法律違反をしていることになり、おかしなことだと思う。日本は死刑がある。その国の法務大臣は死刑執行の書類にサインすることが最大の役目だと思う。それを放棄したり、責任から逃げる人は法務大臣には適していないと思っている。確かに冤罪(えんざい)の可能性がある事件や、再審請求されている事件は慎重に考えるべきだが、法務大臣の思想信条によって死刑執行が円滑に進まないという事態は避けなければいけないと思う」

 ――13年間、どうして公の場で強くいられることができたのか
「私はそんなに強い人間ではない。本当に強い人は、自分の弱さを明るみに出せる。私は弱い人間だから、堅苦しく話してしまう。決して強い人間ではないし、聖人君子ではない。話しながらも悩み、どきどきしながら発言している」

 ――奥様の結婚指輪をネックレスにしたという話をしていたが、そのネックレスは?
「今もしている。棺おけに入るまでしていこうと思っている」

――亡くなった2人に言葉をかけるとしたら、どんな言葉をかけるか
「私と家庭を持ってもらい、私の子として生まれてきてくれたことに感謝している。守ってあげられなかったことの自責の念が強いが、こうして社会の皆さんに関心をよせていただき、刑事司法制度に影響を与えることができたことなどを、数少ない罪滅ぼしの一つとして報告したい。そしてやはり、妻と娘のように、無残にも人生をたたれてしまうような犯罪の被害者が生まれなくなることを切に願う。一番いいことは犯罪がなくなることで、そのことを社会には知っていただくことができたと思っている」
「この判決に勝者なんていない。犯罪が起こった時点で、みんな敗者だと思う。社会から人が減るし、多くの人が悩むし、血税を使って裁判が行われる。結局得られるものはマイナスのものが多い。そういった中から、マイナスのものを社会から排除することが大事で、結果として、妻と娘の命が今後の役に立てればと思う。そのためにできることをやってきたということを(亡くなった2人に)伝えたい」

 ――今はどのような生活を送られているのか
「私自身、2009(平成21)年にある女性と籍を入れて、細々と家庭を持っている。それには色々な理由があるが、私自身、1人で生きていくことがとてもつらくなり、精神的にまいっていた。そしてとてもすばらしい方と出会えたこともあった。いろいろ悩んだし、相手も考えたと思うが、私を支えてくれるということで、今、細々とだが、2人で生活している。その彼女は命日には一緒にお墓に行って、手を合わせてくれている。その人のおかげで、こういった場に立てる。感謝している」