つながっているということ

先日、中高時代の同級生から「この間、町でばったり懐かしい顔に会った」とのメールが送られてきた。メールを送ってきてくれた友人とは、ここ最近、帰国の度に会うチャンスがあり、互いの近況は把握しあっているが、その彼が「町で会った懐かしい顔」の彼女とは、中学時代の3年間をべったり一緒に過ごしたというのに、卒業後はどういう訳だか連絡が途絶えてしまい、以後、全くの伝もなく、どうやっても再会は無理というくらい縁が遠ざかってしまっていた。それが25年以上もの歳月を経て、こんな風に再びつながる日が来ようとは。
さらに驚いたことには、彼女の結婚相手が、当時の私と彼女がよく一緒にふざけていた悪ガキ仲間の一人であったことことも判明。もっと言えば、中学に入ったばかりの私がひそかに恋焦がれていたのが、その頃女子の間でとても人気のあった彼であった。ということで、ここに来て突然私は、当時の大親友のみでなく、心ときめかせていた相手にも再び巡り会えることになったわけだ。

と言っても、実際の「再会」はもう少し先になりそうだが、電話での会話は、これまで流れた時間の長さを瞬時に縮め、私たちを一気にあの13歳の頃へと引き戻していた。聞いてみると、彼女はその彼と5年前ほどに「偶然に道でばったり会ってん」だそうで、彼女はそれまで独身貴族を謳歌し「結婚なんかもうせえへん」と思っていたそう。それが縁とは不思議なもので、今では2児の母親である。

前にもどこかで書いたような気がするけれど、中高といった「青春時代」を一緒に過ごした仲間には、大人になってから得た友人たちに対する気持ちとは、全く違う種類のものがある。どちらも大切なものには違いないのだが、その「濃さ」が違うとでも言えばいいのだろうか。それもそのはず、考えてみれば彼らとは、毎日毎日顔を会わせてほぼ終日を一緒に過ごし、大学時代や社会人時代の友人たちとは全く違った密度の濃い時間を共有している。今となって思えば、長いスカートの制服はちっとも格好よくなんかなかったし、口紅もどきのリップグロスを施した幼い顔はきっと滑稽に見えただろうと思う。それでも当時の私たちは真剣だった。純粋だった。きっと今よりももっともっと深く・・・。
そういう時代を一緒に過ごし、思い出を共に重ねてきた仲間がいて、今の私がここにいる。

「今度帰って来る時は、絶対絶対連絡してな。うちに泊まっていって!」、と彼女は言ってくれた。その言葉が心にしみた。嬉しかった。

まさに人生の巡り合わせとしかいいようのないこの再会には、きっと何かの意味があるのだろう。

人生とは、予期せぬことの連続なり。

「縁」とは予期しない偶然性である。そこに人生の妙味がある。源豊宗(美術史家)



同窓会に出席する