【イチローの真実】(下)プレーは前頭葉の発達が関係

イチロー選手のプレーは、体重の2〜3%の重さしかない脳の働きに大いに関係がある。とりわけ前頭葉の発達の影響が大きいと思います」。脳生理学が専門で「イチローの脳を科学する」の著者でもある名古屋市立大の西野仁雄学長は、こう話す。前頭葉とは脳内のあらゆる情報を集め、人間の行動につなげる「司令塔」の役割を果たす部分だ。

打者の場合、前頭葉から運動系の神経細胞に『動く球をバットで打て』という指示が出て、体全体が動く。西野学長は「イチロー選手はボールの来る位置を予測し、速やかに強くスイングする計画が前頭葉にできている」という。また、人間は神経細胞が複雑に絡み合うことで、より応用的な動き(微妙なバットコントロールもそのひとつ)ができるようになるが、これは生後の訓練の成果だという。

西野学長は、イチローの父、宣之さんらへのインタビューを通じ、イチローが小学3年生の頃から毎日繰り返したバッティングセンターでの打撃など、あらゆる野球動作に対する練習が、神経細胞を発達させたという結論を導いている。

もちろん、一流のプロの選手は幼少期から同様に激しい練習を行っているが、イチローが特に影響を受けたと思われるのが「脳の働きは心の持ち方で左右される」(西野学長)という点。「非常に頑固で負けん気の強い性格と、自ら目標を定めて日々それに取り組む意志の強さが、働きを強める要因になっている」というわけだ。

イチローはオリックスに入団した1992年、1軍首脳陣から打法を変えるよう指示されたが、これを拒否した。そのため最初の2年間、ほとんど1軍の試合に出場できなかったが、それでも自分のやり方を貫いた。西野学長は「このときに悩み、苦しんだことで、努力を重ねることと耐えることの大切さを学んだのでしょう」と指摘する。

残念ながら神経細胞の働きは年齢とともに衰え、ボールへの反応も少しずつ遅くなるが、練習の反復である程度防止はできる。さらに前頭葉は過去の記憶から状況を判断できる機能があるため、西野学長は「今までの経験が大きな財産になる」と説明する。イチローは過去8シーズン、大リーグでもっとも試合に出場し、途中でベンチに下がることがほとんどない。その結果、誰よりもメジャー投手に対応できる環境にある。

そんなイチローだが、今季の開幕前には胃潰瘍(かいよう)による体調不良を訴えた。メジャーで初めて15日間の故障者リスト入りし、開幕から8試合を棒に振ったが、これは、日本が連覇を飾ったワールド・ベースボール・クラシック(WBC)での打撃不振によるストレスが原因に挙げられる。

テレビインタビューなどから心理面を読み解いた「イチロー脳力」などの著書がある鹿屋体育大の児玉光雄教授は、イチローの「1番打者が頑張ったらもっと楽に勝てたのに」などのコメントから、体調を壊した心理状態を「本人に自覚があるかは別として、期待に応えられなかったプレッシャーを相当受けていただろう」と分析した。

強いとされるイチローのメンタルについて「メンタルは強いが、期待に応えられなかった屈辱の気持ちがストレスになったのだと思う」。イチローが大会中に「心が折れかけた」など珍しく弱気な発言を繰り返した点については、「とがっていた部分が年齢を重ねる中で丸くなった印象。人間らしくなってきた」と、心境にも変化が出ていることを指摘している。

天賦の才能に経験を加えることによって、年を経るごとに人間味も出てきた「天才」。ただし、これ以上「普通の人」に近づいてしまうと、イチローらしさがなくなってしまうのかもしれない。(終わり)