イチロー震災10年インタビュー(下) 震災後の結論「野球をしなくては」
神戸に「行く」ではなく、「帰る」と、イチロー選手(31)は表現する。阪神・淡路大震災については「忘れない」ではなく、「忘れられない」。十年前、神戸市西区学園東町にあるプロ野球・オリックスの合宿所「青濤館(せいとうかん)」で震災に遭った。ここ数年、一月十七日には神戸で黙とうをささげる。イチロー選手にとっての「1・17」とは-。
もちろんあの時間、みんな寝ていて、何かものすごい音がしたんです、最初。トラックが突っ込んだのかと思ったら、直後に揺れが始まった。部屋が確か四階だったのですが、屋根か床が抜けるかと。ただ事ではない。命の危険を感じましたね。
結局、青濤館は大丈夫だったんですが、パンツ一枚で食堂まで行きました。誰かの顔を見るとほっとするので、みんな集まったんですよね。
しばらくしたらテレビがついて、高速道路やビルが倒れていた。自分が体験したあの揺れよりひどい所であれば、当然そうなるだろうし、テレビの画面を見ても不思議ではなかった。
知っている人たちに電話しました。皆、無事だった。実家に連絡すると、おやじは歯磨きしていたみたいで、まったく分かっていない。慌ててテレビをつけていました。
▼二月一日からの沖縄・宮古島でのキャンプはもちろん、二カ月半後の開幕も危ぶまれた。
キャンプは無理だろうと、すぐ思いました。それどころでないという雰囲気。
地震の直後に、(チームの中で)自分たちはどうしたらいいか話し合ったんですけど、結局、行き着いたところは、僕らは野球をしなくてはいけない、ということ。通常通りの開幕に向けてやることが、僕たちが一番やらなくてはいけないことだという結論になりましたね。そのために、じゃあ、どうしたらいいか、それぞれが考えた。
キャンプは一月三十一日に関西国際空港に行ける者は集まるということになったが、最終的にみんな集まった。うれしかったですね。野球をやろうと、皆が思っていた。
▼「がんばろうKOBE」のワッペンを袖に付けてブルーウェーブは快進撃した。
ワッペンに思い入れはありますよ。でも、実は、僕はあれがあんまり好きではなかった。表に付いているから。
例えば、けがをした選手の背番号を帽子に書いたりすることがありますよね。アメリカで始まって、日本の選手もやたらやっていたみたいですけど。僕は、ああいうのは心や気持ちの問題なんだから、付けるのなら裏に付けてもらいたい。見えない所に。それで、そのことが知れ渡るのなら、いいです。どかーんと見せるというのは、ちょっとやらしいなと思う。
ただ、それと、「がんばろうKOBE」のワッペンとは違う。あのワッペンを見て、被災した人たちが一緒の気持ちになってやれるという面があったんで、(よいか悪いかの判断は)難しいですけど。僕の気持ち的には、裏側に付けるのが本当だと思います。
ワッペンを取るタイミングもすごく難しかった。僕は日本一になったとき、取るべきではないかと意見を出したんですけど。時機を逸すると、ずーっとになってしまうから。
▼今年も例年通り神戸で自主トレを始める。
神戸が好きだから。それが、自主トレをここで始める一番の理由です。練習場がほかにあっても、それ以外の土地に行くかどうか分からない。逆に練習場がなくても、オフには神戸に帰ってくると思う。将来どうなるか分からないですが、僕は神戸とは一生付き合っていくと思います。
今年、自主トレを始める日はまだ決めていません。一月の中ごろには始めます。
▼イチロー選手にとっての一月十七日とは。
あの日のことを、僕らは、被災した人たちは、いつだって忘れることはないんですが、もう一度、しっかり自分の記憶、気持ちの中にとどめる日ですよね。
それと、前に進んでもらいたい。後ろ向きにならずに。十年たったわけですし、忘れるという意味ではなく、気持ちを切り替えられる区切りになると思うんですよね。
僕は、次に起こることは何か、いま何をすればいいのか、いつも考えます。無駄というか、生かされないことの方が多いんですが、考える労力を惜しむと、前に進むことを止めてしまうことになる。それぞれの生活の場で、考える内容や質は変わるでしょうけれど、考えてみてほしい。僕も新しい年、無駄なことをたくさん考え、そこから新しい何かが見えてきたらうれしいですね。