イチロー震災10年インタビュー(上) この街が「第2のふるさと」

あの年、野球に私たちは勇気づけられた。阪神・淡路大震災に遭った神戸を舞台に、オリックス・ブルーウェーブは初めてのパ・リーグ優勝を果たした。翌年には日本一に。ヒットを打ち続けたイチロー選手(31)は、二〇〇〇年の渡米後も勢いは止まらず、昨年は米大リーグの年間最多安打記録を八十四年ぶりに塗り替えた。神戸から巣立ったヒーローは、今も神戸を励まし続けている。イチロー選手に震災十年を迎える神戸への思いを聞いた。

(聞き手 宮沢之祐、木村信行)

 道は誰かに造ってもらうのではなく、自分で切り開いていくもの。そう思っています。でも、震災に遭った一九九五年は、何かに導かれるような感じでしたね。自分以外の何かの力が働いているような。

 自分よりも、他人のことを先に考えるなんてことを、僕たち野球選手はあまりしない。けれども、九六年までの期間だけは違っていた。人のためにやろうという意識が強かった。

 震災で傷ついている人たちが球場にやって来て、スポーツを見ることで、つらいことを忘れようとしている。そんな雰囲気があった。街に出れば、震災に遭った人たちが、僕に何かを託していると感じることができました。

 人のために何かをしようとしたときは、だいたいうまくいかないもの。なのに、九五年優勝、九六年日本一と、あんなにうまくいっちゃって。ちょっと錯覚しましたよね。

 ▼その後、ブルーウェーブのチーム成績は低迷し、観客数も減っていった。イチロー選手は、そんな状態にいら立っているように見えた。

  当時の僕は、(人気を盛り返すことに)何かできると思っていたんじゃないでしょうか。何をすれば見る人が喜ぶのか。あのころは、それが第一にきていた。

 でも、昨シーズン(二〇〇四年)をやっているうち、それは間違っていたと思いました。一人の人間ができることは限られていて、一人の力や思いで世の中を変えることは無理だ、と。世の中の流れに乗って何かを変えたり、きっかけを作ったりは、できたとしても。

 自分の力をあまりにも過大評価していた。一種の思い上がりですよね。

 ▼厳しく過去を総括するイチロー選手。〇四年に何があったのか。

 〇三年のシーズンが終わったとき、自分勝手にやらしてもらおうと思ったんですね。ちょっと表現が悪いですけども。自分が満足したり、面白くなかったりしたら、見ている人だって面白いと思わないんじゃないか、と。

 〇四年は人を喜ばせようと思ったわけではない。誰かを勇気づけようとしたわけでもない。自分自身のためプレーをした。その結果、世の中の人に何かを感じてもらった。楽しんでもらえたわけですよ。

 観客を増やそうと思いながらプレーしても、できなかった。なのに、〇四年はそんなことを考えていないのにできた。面白いですよね。

 ▼同じ年、ブルーウェーブの名前は消滅した。

 寂しいですよ、もうないわけですから。

 ドラフトで指名されたときは、ものすごく嫌だった。全然なじみがなく、ネガティブなイメージしかなかった。名古屋を離れたことがなかったから、不安な気持ちにもなったし。でも、プロに入ることを目標にしていたから、入団させてもらった。

 三年目に(日本の最多安打記録を更新し)世の中の人に見てもらうようになったんですけど、三年間が大きかった。今ある僕の人格だとか性格だとか考え方というのは、ほとんど神戸で作られたものなんですよね。一番何かを感じて成長する時期に、神戸にいた。出身は愛知県ですが、僕にはふるさとが二つある。

 米国に行っても気になるのは、ほとんどオリックスだけです。もちろん(西武の)松坂や(巨人の)上原は、個人として興味がありますが。

 新しい監督が仰木監督と聞いて、それは僕にとっても救いでしたね。違う監督なら、興味がかなり薄れたかも知れない。今年も気になるチームです、もちろん。

 ▼「市民球団」を名乗っていたオリックスが、本拠地を大阪との併用にする。

 日本では、ユニホームに大きく企業の名前が出るから、なかなか市民球団という意識は出にくいですよね。胸にどんと「KOBE」と書いてあれば違うでしょうけど。

 ただ、神戸という土地でなら市民球団を育てられるんではないかと、僕は感じていたんですけどね。

 どうしてか? 人が熱いですよ。震災があって、球場に行くのだって難しい状況で、あれだけ人が集まったんですから、その時点で熱いんじゃないでしょうか。熱くなれるし、ちょっと上品だし。

 もっと厚かましく、自信を持っていいとは思う。海も山もあって、日本でこんなきれいな街はあんまりない。その気になったら、神戸は活気のある街に絶対なるはずです。

 

 イチロー 本名・鈴木一朗。愛知県出身。愛工大名電高から1991年、ドラフト4位でオリックス入団。登録名を「イチロー」にした94年、年間210安打の日本プロ野球最多安打記録を達成。同年から7年連続で首位打者。2000年オフに米大リーグのマリナーズ入り。01年、首位打者盗塁王となり、ア・リーグの新人王、最優秀選手に選ばれた。04年は月間50安打以上を3度マークし、年間262安打で大リーグ最多安打記録を更新。首位打者にもなった。180センチ、77キロ。