乙武洋匡「自分をようやく理解してもらえた」

乙武洋匡。22歳で上梓した著書『五体不満足』は累計発行数約480万部の出版史に残る大ヒットロングセラー。多様性のある社会の実現を提唱する中にも鋭くユーモアに満ちた発言を続け、ツイッターフォロワーは84万人を超える。自身が抱える障害と同じ「重度さ」で機知に満ちた風刺を操る知性の持ち主であり、政治からエロスまで等分の熱量で語れる論者として、長きにわたる活躍を見せてきた。だが、昨年の不倫騒動で彼は一度地に落ち、泥にまみれた。世間から彼に投げつけられた最も下劣な言葉は「障害者のくせに不倫なんかしやがって」。老若男女に据わりのいい「頑張り屋さんの乙武くん」ではない。
そんな乙武氏が再び世間へカムバックしつつある。一連の騒動で彼は何を感じ、いま何を思うのか。広くウェブ界隈の仕掛け人であり、今の日本社会の表裏をクールに見る視線と見識を持つ中川淳一郎氏との対談が実現した。(対談司会:河崎 環)

■「清廉潔白で頑張り屋」のイメージに苦しんだ

 河崎環(以下、河崎):乙武さんと中川さんは昨年末に初めて顔を合わせられたと伺いました。

 中川淳一郎(以下、中川):以前、ツイッター乙武さんの多様性議論にかみついたんですよ。「弱者を尊重とか言うなら俺のようなアル中も認めろ」なんて、どう考えても言いがかりをつけただけなんですけれども。でも乙武さんは誠実に対応してくれて。

 河崎:ネット社会には「弱者マウンティング」と呼ばれる現象が起きていますね。「より俺のほうが社会的に弱く不利な状況にある、俺のほうがひどい人生を送っているんだ」とマウントを取り合う。弱者という言葉が、水戸黄門の印籠のように有効なんですよね。

 乙武さんは重度の障害を負っているにもかかわらず、みんなが想像しがちな弱者でも聖人君子でもないよ、同情なんかしないでよ、というスタンス。中川さんは、どういうふうに今までご覧になっていました? 

そこらの健常者の男よりもよっぽど勝ち組

 中川:480万部(『五体不満足』)かよ、うらやましいぜ、って。日本人でこれを上回るのは、『窓ぎわのトットちゃん』の黒柳徹子さん(約580万部)、『道をひらく』の松下幸之助さん(約520万部)しかいない。だから、別に弱者うんぬん以前に物書きとしてすごい人だって認識だったんですよ。すごい著者、しかもイケメン。もし、乙武さんがあの本をあそこまで売ってなかったら、別の見方をしてたかもしれないけれど。

 河崎:乙武さんはスペックが高いし、おカネも仕事も家族もすべてを持っている。そこらの健常者の男よりもよっぽど勝ち組。だから不倫を報じた「新潮砲」がさく裂したときにも、私は乙武さんを強者として認識していました。

 中川:あのときって、たたく論調は不倫だっていうことだけですよね。

24時間テレビ的な勝手な文脈で

 河崎:そうそう。あとはやっぱり、あの乙武さんがそういうことをするんだって、老若男女がショックを受けたんですよね。

 中川:それは「障害者は清廉潔白たれ」みたいな、24時間テレビ的な勝手な文脈。乙武さんは自分に向かってイメージを押し付けるような社会の目があるとは感じますか。

 乙武洋匡(以下、乙武):「聖人君子」の仮面には、この18年間ずっと苦しめられてきました。22歳、大学3年生のときに『五体不満足』が出版されて。本の内容は、わりと面白おかしく書いたつもりなのに、やっぱり障害者であるということが前面に出たことで、非常に清廉潔白な聖人君子、というようなイメージを持たれてしまった。でも、自分がそんなたいそうな人間でないことは、自分がいちばんよくわかっているわけです。

 メディアに出るたびに、おちゃらけてみたり、下ネタをぶっこんでみたりと、わりと露悪的に振る舞い続けたんですね。ところが、実際に放送された番組であったり、掲載された記事であったりを見てみると、そういったところはバッサリとカットされている。そんなことが何年も続くうちに、「あ、求められてないんだな」と。自分の多面的で立体的な姿っていうのは必要とされておらず、自分がいいこと言っているところ、頑張ってるところ、そういうところを平面的に切り取られて、そこだけが必要とされているんだなと。それが何年も続くうちに、やっぱり自分の中でも、摩耗してきてしまった部分というか、あきらめに近い気持ちが出てきてしまったんですよね。

 そこで勝手に自分の中で、オン・オフできるスイッチをつくっていくようになった。「じゃあもうわかったよ。皆が求める乙武さん、ちゃんと演じるよ」と覚悟を決める一方で、本来の自分の弱さ、だらしなさという部分がプライベートに凝縮されてしまった。「公では頑張ってるんだから……」とどこかで自分を甘やかしてしまっていた部分もあったかもしれません。

身内から批判が来る

 乙武:私としては、世間から「メッキが剝がれた」と批判される前に、必死になって「これはメッキですよ」とアピールしてきたつもりなのですが、結局、その言葉は誰にも届いていなかった。失った信頼は取り返しがつかないほど大きなものだという自覚はありますが、心のどこかでホッとしている自分がいるのも否めない。これで、ようやく自分が大した人間ではないことがわかっていただけた、と。

■「余計なことしやがって」

 中川:今のメディアとか世間というのは、乙武さんにとっていわば「外側の人」で、「内側」ともいえる存在とは、たぶん障害者の人たちだと思うんです。今、「Abema TIMES」っていうニュースサイトの編集に携わっているんですが、そこでゲイのライターに、「LGBTについて毎週書いてほしい」とお願いしたんです。二丁目の事情とか、同性カップル事情とか。そうしたら毎回記事が炎上するんですよ。炎上させる人って、全員LGBTの人。つまり身内から批判が来るんですね。あるときは、あまりのクレームに記事を落とさざるをえなかったほど。こういった、内なる人からの乙武さんへのバッシングはありましたか。

 乙武:『五体不満足』が出た当初、すごく驚かされたのが、まさに障害当事者やご家族からのバッシングだったんですね。私自身としては、別に障害者のためにという強い思いであの本を書いたわけではなかったんですが。結果として、あの本が多くの人に読まれることで、障害者を取り巻く環境や、世間の障害者に対する見方っていうものが変わったらいいな、というぐらいの気持ちは持っていました。

 中川:たとえば小人プロレスっていうのがありますが、あれを「差別だ!」と糾弾するのは違うんじゃないか、というのが乙武さんの考えということですよね。

 乙武:まさにそうです。出版した当時はまだ甘ちゃんの22歳の若造ですから、あの本の内容で、誰かから批判を受けるなんていう想定は1ミリもしてなかった。ところが出版されてみたら、思いのほか障害当事者やご家族からバッシングが相次いで。多くあった声としては、「あなたは、たまたま恵まれていただけだ」というもの。

 中川:「恵まれているだけ」っていうのは、容姿や、頭脳や、家庭環境ですか。

 乙武:主に家庭環境ですね。やはり、障害を否定されず、親から肯定的に育てられたことが大きい、と。あとは、「お前が登場したことによって、『乙武さんだって、あんなに頑張ってるんだから、あなたも頑張れるはず』と、お前と同様の頑張りを強要されるようになった。どうしてくれるんだ」っていう。

 中川:なんかツイッターみたいですね。

 乙武:結構それは衝撃でした。さっきもお話ししたように、「彼らのために」という思いがあったわけではないものの、なんとなく障害者にプラスになったらいいなぐらいの気持ちはあったので、まさかその方々から批判されるとは、夢にも思っていなかった。本当に、真後ろからやりが飛んできたみたいな気持ちでした。でも、結局それは、18年間変わることがなかった。もちろん、同じく障害当事者やそのご家族から「勇気をもらえた」「乙武さんは障害者にとって希望の星です」というありがたいお言葉も多く頂戴しましたが、その一方で私に対する批判の急先鋒が、基本的には障害者であり続けたというのも、否定できない事実ですね。

嫌な話し方

 中川:そうなんですね。会社でよく聞く、すごく嫌いな言葉に「お前、東大卒のくせに使えないな」というのがあるんですが、東大卒の子は超絶仕事ができるっていう前提で、「自分は東大入れなかったけど、俺のほうがよっぽど仕事ができるんだからな、バーカ」って言ってる感じがするんですよ。今の乙武さんの話につながる、嫌な話し方だと思います。

■余裕を失った社会に蔓延する自己責任論

 乙武:だから自分は、カテゴライズされることに対して、やっぱり強烈な反発心というものがあるんです。本が出るまでも、「障害者だからこうだよね」と思われる風潮っていうのが、とにかく窮屈で。『五体不満足』という本を書いた最大の理由がそこなんですよ。そこで、「そんなこともないよ。皆さんが思っている障害者像って『不幸』で『かわいそう』かもしれないけれども、私みたいに幸せに生きている人間もいることは知ってくださいね」というつもりで、書かせていただいた。ただ今度は、そういうつもりで出した『五体不満足』が、思いのほか多くの方に読まれすぎてしまったことで、逆に今度、皆さんの障害者のイメージが「乙武さん」になってしまったんですよね。

 中川:そういうベストセラー本を出す力もない人からすると、「せっかく俺は弱者としてみんなに優しくしてもらえてたのに、余計なことをしやがって」みたいな反応が出るわけですね。

 乙武:おっしゃるとおりです。世の中に、まだまだ障害者まわりで、改善しなければいけない問題というのは、たくさんあったはずなのに、私が「僕は生きてて、ハッピーだよ」というメッセージを強烈に発信しすぎたために、「あ、障害者の方も幸せに生きてるんだ、こんなに楽しそうに人生送れてるんだ。じゃ、それでOKだね」となる風潮が、やっぱり許せなかった人が多くいたと思います。

 中川:2005年ぐらいからずっとはびこっている自己責任論に近くなっちゃう話ですよね。

 乙武:意図せず、私がそこに加担してしまった部分はあるかもしれません。しかし、なぜ私たちはこうも他者をカテゴライズして判断をしてしまうのでしょう。「AならA」というふうに見られていたところ、たまたま私が「Bだよ」と提示したら、もうBとしか見なくなる。健常者にもいろいろな人がいるように、障害者にだってAがいて、Bがいて、いろいろな人がいるはずなのに、なぜ「障害者とはこういう人たち」とくくりたがるのかな、と。

 今回の騒動でも、それをすごく感じました。今までは、私のいい部分だけしか見てもらえなくって、「いや、こんなひどい面もあるんですよ」と盛んにアピールしていても、そっちはまったくスルーされて。「いやいや、乙武さん。そんな謙遜して」と、いいところしか取り上げられなかった。ところが、いったん黒い部分が表出すると、今まで言っていたことは、逆にまったくスルーされて、「あいつは最低、最悪の人間だ」となる。確かに私がしたことは最低かもしれませんが、あそこまで「白」扱いされてきた人間が、ここまで「黒」扱いしかされなくなると、世間の評判っていい加減なものだなと苦笑せざるをえない。

社会の不寛容さが増してきているから

 乙武:まあ、そんな小難しい話ではなく、私が発言する内容、私の存在そのものがすごく窮屈に思えたり、圧のように感じられたりという人が、「今だ!」とばかりにバッシングに回ったというだけの話かもしれませんけどね(笑)。

■「弱者マウンティング」へのすり替え

 中川:2013年に、銀座のイタリアンレストランで乙武さんが入店拒否されたことに憤慨して、ツイッターで批判したことが世の中を巻き込む騒動になったことがありましたが、その頃からですか。

 乙武:そうですね。

 中川:たぶん、あのとき初めて、乙武さんバッシングをやっていいという動きが出た。あのときって「障害者だったら、健常者が手助けして当たり前っていうふうに思っているんだろう」みたいな論調でしたよね。どう思いました? 

 乙武:文脈を踏まえずに、タイトルや表層的な部分だけで物事を論じる人が、いかに多いかということを実感させられました。私自身は、「車いすで入店できなかった」という事実のみに腹を立てたわけではなくて。たとえば、あのときの店主の物言いが、「いや、うちの店は、これこれこういう状況なので、申し訳ないけれども、また改めて食べに来ていただくことはできませんか」というような物言いだったら、「そうですよね。こちらも申し訳なかった。突然来ちゃって。またお伺いしますね」と、お互い気持ちよく終われていたと思うんです。

 ところが、本当にぶっきらぼうな物言いで、「いや、うちはこういうスタンスなんでね」といかにも迷惑そうな態度で言われたので、「接客業として、それはないんじゃないの?」と感情を害したんですね。それは、車いすうんぬんみたいな話にすり替えられて、双方にバッシングの矛先が向いてしまった。私の感情的で大人げない書き方にも問題があったと反省していますが、もうちょっと丁寧に読んでほしかったなという思いもあります。

 中川:違和感があったのは、あの件についてツイッター乙武さんをたたいている人たちが「強者・弱者論」に執着していたことです。乙武さんがその強者とされる理由は、乙武さんにツイッターフォロワーが多いってだけなんです。あのイタリア料理店の店主のツイッターフォロワーは、たぶん数百しかいない。でも、乙武さんは数十万。「フォロワーが多い、影響力のある強者が、いたいけなイタリア料理店の店主を恫喝(どうかつ)した」って話になっちゃったんですね。ただの客と店の話にならず、いかに弱者ポジションをとるかという問題にすり替えられた。

 乙武:そうですね。確かに、弱者というポジションをとると、以前は同情してもらえたり、優遇されたり、言葉は悪いですけれども、特典みたいなものが漏れなく付いてきた時代だったのかもしれない。私は、もう今の時代は、弱者ポジションをとっても損をすることが多い時代に突入してきたと思います。

自分よりも弱いものをたたくことで…

 乙武:理由は、今ものすごく社会の不寛容さが増してきているように思うからです。たとえば、バブル期のように経済が潤っていて、一人ひとりの生活に余裕があった時代というのは、人間は良心がくすぐられる瞬間って気持ちがいいものなので、弱者に対して施しをし、優しい行為をしてあげたっていうのは、なんだかんだ気持ちがいいわけですよね。だから、弱者ポジションをとる人も、それなりの恩恵にあずかれたと思うんです。ところが今は、おのおの経済的にも苦しい時代になってきて、他人に対して寛容になる余裕がない。となると、逆に弱者に対しては厳しい時代。弱者のほうがたたきやすい時代になってきていると思うんですよね。

 中川:それが、おそらく生活保護たたきへもつながってくる話ですね。

 乙武:おっしゃるとおりです。実際に生活保護を受けてらっしゃる方の中で、不正受給をしている方の割合というのは、0.4%にしか満たないというデータが出ている。1000人のうち4人です。その割合を、さも結構なボリュームでそういう人がいるかのようにたたく風潮というのは、やっぱり自分よりも弱いものをたたくことで溜飲を下げているのだと。もっと言えば、「俺らだって、こんなに頑張ってこの窮状なのに、なんで俺らよりも働いてないやつがいい目にあうんだ」という思いが渦巻いているんだと思うんです。

 だから、昔はある程度、弱者ポジションをとれば、それなりに心地いい思いができた。でも今は、そんなことしてもあまり得はないんじゃないのかな。また「お前は強者だから」と批判を浴びることを覚悟で言いますが、自分がある程度の弱者であるという自覚があったとしても、それで同情を引こうとしたり、弱者であることで何か恩恵にあずかろうとしたりするよりは、「そんな自分でも、できることはないか」と考える姿勢をつねに持っておくほうが、結局は得することのほうが多いような気はします。

 中川:その姿勢を持ったうえで、その弱い人を、ちゃんと助けなくちゃいけないと思います。それこそ、生活保護を受けている人って、だいたい高齢者なんですよね。でも、体が動かないから、働けないというだけの話で。では反論を封じ込めるにはどうすべきかというときに、最低賃金生活保護より上げるっていう話になってくるわけですよ。たとえば、1日8時間アルバイトして、それで月に22日働いたときに、間違いなく生活保護で支給される金額よりも上だという状況を、つくらなければならない。これは政策の話なのに、受給している個人たたきになってしまうのはおかしい。

 乙武:理想論でいえば、「想像力を持ちましょう」と。まさに中川さんが指摘された自己責任論が蔓延している今の社会です。じゃ、なんでその人はできないのか。なんでその人は、今その状況に追い込まれてしまったのか。個々の文脈を丁寧に追っていけば、「ああ、それは仕方がないかもね」「そりゃ、頑張れないよね」という状況が、本来は見えてくるはずなんです。

 だから、そういう弱い立場の人が、一人ひとり、なぜ今弱い立場にいるのか、いざるをえないのか、そこに対する想像力を働かせるしかない。ただ、世の中はそう簡単に理想がまかり通らないので、まずは中川さんがおっしゃったように、制度設計によって、そういった声が出にくくなるようにしていくことが最適解なのだろうと。

■ネットたたきの当事者たちとは誰なのか

 河崎:先ほど乙武さんがおっしゃった「僕の存在そのものが窮屈だったりとか、圧のように感じていたりする人たち」は確実にいる。必ずしも障害がある方々の中から出てくるのではなくて、健常者側にも、そういう人たちは多いと思うんです。経済状況がなんであれ、政治的なバックグラウンドがなんであれ、乙武さんという存在それ自体に窮屈さを感じる人々ですよね。その人たちは、たぶんそれこそ相手が強者であろうと、弱者であろうと、とにかく自分の鬱屈であるとか、社会的な不満であるとかをぶつける人たちじゃないかな。今、中川さんがおっしゃったような、弱者であっても強者であってもたたく人たち。ネット上にいる、非常に鬱屈した何かを持っている人たちの心理が知りたい。

見下していたものが強者になった違和感

 乙武:私があれだけネットでたたかれる理由と、はるかぜちゃんがたたかれる理由って、結構近いのかなと思っています。共に、もともと人々が無意識的に「自分より下」だと見ていたはずの存在なんです。

 中川:そうか、彼女がツイッターを始めたときって、まだ11歳とか、もっと小さかったのかもしれない。

 乙武:はい。小学生が自分よりも頭が切れて、正論を言うって、たぶんある程度自分に余裕があったり、自己肯定感があったりする方は、「あ、すごい利発なお子さんがいるな。優秀な小学生がいるんだな」と肯定的にとらえられると思うんですよ。ところが、自分自身に余裕がなかったり、自己肯定感がなかったりすると、たぶんそれが「むかつく、偉そう、生意気」と映るんだと思うんです。

 それと同じで、障害者というのは、今までの社会では、弱者であり、自分よりも下の存在であり、保護されるべき存在だったわけですよね。その人間が、著名になり、影響力や発言力を持つ存在になる。見下していたものが強者になった違和感や戸惑いみたいなものが、「むかつく、生意気だ」との気持ちにさせる。だからこそ、そいつがこけたことで、「しめた!  ここだ!」と一気に反攻に回った部分もあるのかなと。

 中川:蓮舫さんの二重国籍の話があそこまでたたかれたのも、同じ構図なんですかね。台湾から帰化した結果、国籍が両方あったという話です。ただ、ネットの一部の人は、「民進党っていうのは、中華に日本を売ろうとしている売国政党だ」みたいな言い方があって。そこについに帰化軸が入ってしまった時点で、なんか見下した視線が生まれた。

 乙武:蓮舫さんの場合は、やっぱり政治的、思想的な問題が加わってしまうので、ちょっと、はるかぜちゃんや私の文脈とは、異なる部分もあるかもしれない。でも根本的な問題でいうと、そもそも蓮舫さんは「女性」であるという部分が大きいのかなと。

 中川:そうか、そうか。

 乙武:男性は女性の立場を下に見ていた時代が、長く続いていたと思うんですよね。だから、蓮舫さんのように切れ味鋭く、強い物言いをする女性は生意気だと思われる風潮が、まだこの平成になった世の中でも、あると思うんですよ。でも、今回の騒動までは彼女の言うことがわりと正論だと感じる人が多かったからこそ、生意気だと思いながらも、なかなか反論できずにいた。だからこそ、ほころびを見つけたときに、「しめた、今だ」というのが、一気に吹き出たのかなと。

■「障害者のくせに不倫なんかしやがって」

 中川:だから、今のはるかぜちゃんや乙武さんの話でいうと、それを的確に表すのはジャイアンの言葉かなと。「あいつ、のび太のくせに生意気だ」っていう、あの威圧感。やっぱり藤子不二雄さんって、いろいろ本質を突く人だなと思うんですよ。

 (一同笑う)

 乙武:まさに今の「のび太のくせに生意気だ」の写しのような批判が、ツイッターにも多く寄せられましたよ。「障害者のくせに不倫なんかしやがって」って。

 河崎:いかに差別意識が人々の根底に流れているのかを感じますね。

東洋経済オンライン 3/1(水)