「北の国から2002・遺言」で号泣…

どうしてもこれだけは見逃すわけには行かなかったのです。なんせ、この番組は始まった当時からと、その後もスペシャル番組を含めて欠かさず見てきたし、今回が最終章となれば、なおさら蛍と純の行く末を自分のこの目で確かめておかなくては死んでも死にきれない(だいぶオーバー)。と言うわけで、しつこいくらいに、元同僚に頼みまくり、先日やっとそのビデオが手元に届いたのでした。感謝、感謝。

東京に住んでいた当時は、富良野というか北海道の自然や雪の厳しさは、全く実感なく見ていた訳ですが、ここに住み出してからはそうはいきません。四季折々の美しさ、雪の厳しさなどはここでの生活とオーバーラップする部分が多分にあって、それだけでも、妙な共感度が高まってしまいます。この番組をこれからご覧になる方もいらっしゃるかも知れませんので、話の大筋には触れませんが、とにかく、これが予想以上に胸にくるストーリーに仕上がっていまして、私はティッシュの箱を抱えて、鼻をずるずる言わせながら見ておりました。ま、はっきり言って「号泣」です。「やっぱり、ドラマはこうでなくちゃ」「やっぱり日本語はいいなぁ」などなど、いろんな思いが過ぎって、ドラマが終わりスタッフの名前のテロップが流れ初めても、涙をとめることができませんでした。

アメリカにも感動作といわれる映画やドラマは数々あります。もちろん、そうしたものを見れば、涙も流れます。が、やっぱり。言葉が違うと感情の移入の度合いが薄くなってしまうのだと思うのです。そう、「北の国から」レベルでは泣くことはできないのです。もちろん、私の英語力の乏しさもあるかとは思いますが、それ以上に、やはり母国語というのは、「自分の全て」を含んでいるのだと実感します。だから、頭で理解しているのではなくて、体で、血で理解しているんだと…。なんだかうまく表現できませんが、そう、言葉はやっぱり私の肉体の一部であって、つまり、恐らく、この「北の国から」の英語訳なんて放映されても、きっとこうは感動できないでしょう。わかりますか、こういう「感じ」って。

いつだったか、野田秀樹の芝居を見に行って、舞台終了後に体の力の全てが抜け、涙が止まらなくなったことがありました。彼の作品をご覧になった方は分かるかと思いますが、野田作品は日本語でなくちゃ成り立たないくらい、言葉が重要なポイントになっています(と、私は思っています)。この時も、その彼の世界から投げかけられた、日常で使っていて、その全てを知っているはずの「日本語」という言葉の奥深さ、微妙さ、美しさ、温かさなどを痛いくらい再認識させられ、そうして圧倒されて、私の中の血が煮えたぎるような感動にただ震えてとまらなくなったのでした。

日ごろ、異国語で生活しているから余計にそうなのでしょう。久々に触れた日本語の持つ繊細さはとてもショックでした。英語では日本語の「懐かしい」という言葉に該当する言葉がないと言われるのは有名な話ですが、他にも日本語の持つ微妙な言いまわしに値する英語が見当たらなくてイライラすることがあります。そんな私にとって、この「北の国から」のビデオは一服の清涼剤のようでした。

なんだか、馬鹿みたいに熱くなってしまいましたが。要は、私はやっぱり日本人、ってことですか。